2026.06.25
誰かに話を聞きに行く前に、まずは私自身についてオープンにしておきたいと思います。
私が育ったのは4人家族で、父と母、そして2歳年下の妹がいます。90年代に茨城県水戸市という地方都市で育ちました。母が25歳、父が24歳の時に私が生まれています。幼い頃は駅前のマンションに住んでいましたが、私が小学校に入学する2001年に一軒家を購入し、そこに引っ越しました。
当時の家庭では珍しくなかったと思いますが、私も妹も母のワンオペ育児で育てられました。母が掃除や洗濯、買い出しなど家事・育児のすべてを行っていて、父が何か家の仕事をしているのは一度も見たことがありません。今でこそ、それってどうなのかと思うのですが、当時はそれが当たり前のことだと思っていました。
父は家を空けていることが多く、ずっと会社で仕事をしているようでした。彼は私が生まれた年に設計事務所を立ち上げていて、その仕事が忙しかったようです。3日に1回くらい、深夜に家に帰ってきて朝に出掛けるような生活で、家族みんなでご飯を食べるというような経験はあまりありませんでした。
いま振り返ると、父が不在がちであることを除いて一家にはそこまで大きな問題はなかったような気がしています。父と母はなんとなく疎遠でしたが、まだそこまで険悪なムードではなかったと記憶しています。
ですが、私が12歳の時に夫婦の関係に決定的な出来事が起こりました。父の不倫が発覚したのです。母が言うには、不倫が発覚するきっかけを作ったのは私だったそうで、父の古い携帯電話をもらって遊んでいたところ、社内の女性との不倫を示唆するメールを発見してしまったということでした。当時私は小学生で、不倫の意味も分かっていませんでした。ただ、何か妙なメールを発見してしまったということで母に伝えてしまったのかもしれません。不倫の相手は古くから会社の一員だった人で、母も私も面識のある人でした。
発覚した時、母がどんな反応をしていたのかは覚えていませんが、その場で取り乱したりするようなことはなかったと思います。ただ、当時話せる友人もいなかっただろうし、かなり苦しい思いをしたのではないかと推察します。
母は不倫に気づきながらも、直接父に伝えることも離婚を切り出すこともしませんでした。その代わり、家の中で私と妹だけに父の悪口を話すようになったのです。それは延々と悪態をつくというよりは、話の節々に皮肉をにじませるような話しぶりで、いつからか母は父のことを時折「あしながおじさん」と揶揄するようになりました。
家族の全員が父の不倫を知っていながらも知らないふりをし、父本人はそれにまったく気が付いていない。不倫の発覚以降、私たち三人は仮面を被っているような状態で生活をするようになります。当然、父にも母にも甘えたり、反抗したりできるような状況ではありませんでした。父がいないところでは母の話を聞いて共感や同調をし、父がいる時は空気が悪くならないように会話を回していく。私と妹は家族のバランス調整の役割を負うようになっていきました。
それから18歳までを実家で過ごし、大学に進学してからはずっと一人暮らしをしています。
実家を離れて暮らすようになってみて初めて、自分の育った家を客観的に見られるようになりました。実家で当たり前とされていた環境から解き放たれたこと、そして様々な人と話をするようになったことが大きな理由だと思います。そのおかげで、この家に生まれたことで恵まれていた点や、その反対にされて嫌だったことを一つ一つ見つけられるようになっていったのです。
例えば、家を出てようやく気づいたものの中に、母の視線というか、強い念ようなものの存在がありました。「視線」と呼んだものは表現がしづらいのですが、例えるならば監視カメラが家中にたくさん置かれているような感じです。
どういうわけか、どこにいても、何をしていても母に見られているような感覚がありました。なぜそういう風に感じていたのかはいまでも分かりません。母はどちらかというと子どもたちに対してあまり干渉しないタイプの人間でした。だから、母の表面的な振舞いと、私が深いところで感じ取っていた感覚は少し食い違うような感じがしています。ですが、子どもは感覚が鋭敏な存在です。きっと私の感じていたことはそこまで間違っていない。母には、必死に出すまいとしていた干渉的・束縛的な側面があったのではないかと今では思っています。
実家の嫌な側面に気づいてからはいっそう、父母と距離を取りながら生活を送っていました。家に帰ることもなくなり、私が暮らしている東京近郊で食事に誘われても断ることが増えていきました。そういう風に20代の前半を過ごして、一生こうやってのらりくらりと親との関係性を曖昧にしながら生活をしていくのだろう。私はそういう風に思っていました。
ですが27歳の時、急に両親が離婚をすることになりました。「母が離婚を考えているそうだから、家族4人での会食に出席してほしい」と妹から突然連絡があり、言われるがまま、離婚協議の場に私も同席したのです。正直、その場に同席することには気乗りしなかったのですが、私と妹が証人として存在することがフェアな話し合いの助けになるのであれば仕方がない、そう思って行くことにしました。それに、この夫婦の終わりを見届けてやろうという気持ちもありました。
場所は六本木の高級レストランでした。母は父に何の予告もせずに誘っていたので、予約をした父は家族が集まるハレの日だと考えていたのだと思います。
コースの終盤、母は「私たちの関係性について一度考えたほうがいいんじゃない?」と父に提案をしました。母の中では絶対に離婚したいというわけでもなかったようなのですが、その話題を持ち出すことで夫婦の関係性を見直したかったということでした。父はその言葉を離婚を突きつけられたのだと解釈し、その場で離婚が決定しました。
そしてこの後、父はすぐに長年の不倫相手と再婚を決めました。私も妹も、あまりのスピードに違和感を感じ、反対したのですが、「俺は自分の好きなようにやる」と言って押し切られてしまいました。不倫相手と同一の戸籍に入ることに耐えられなかった私と妹は、元々入っていた父の籍を抜けて、母方の戸籍に移ることにしました。
これが、私の育った実家の始まりから終わりまでです。
正直なところ、離婚することは両親の勝手なので私はどうでもいいと思っていました。私も妹も成人して家も出ていたので、親の関係性については親同士が決めたら良いと思います。再婚についてもこちらの意見が大事にされなかったことには傷つきましたが、もはやどうしようもないことでした。
それよりも重要なことがありました。
それは、私がこの家庭環境によって少しずつ自分を損なってきたのではないかということでした。しかも、それは分かりやすい問題がある父との関係性ではなく、母との関係性を通じて損なわれてきたのなのではないか。
私は昔から、他人との関わりの中で難しさを抱えてきました。人といると自分の本当の気持ちが分からなくなること、集団の中で居心地良く過ごすことができないこと、他者を心から信頼することが難しいこと。私は自分のことをからっぽな人間だと思っています。中高生の時は、冷たくて感情のない機械みたいだと思っていました。そのくらい、昔から自分に対して中身のない人間だと自認していました。それゆえに、人がどのように振る舞っているかを観察して、それを真似ることで生き延びてきたという感覚があります。
それに、人と本当の意味でつながっていると感じることもほとんどなかったように思うのです。どんなパートナーがいようと、どんなに仲の良い人に囲まれていようと「自分はひとりだ」という感覚が拭えず、心から安心することができないのです。まるで、誰もいない星でずっと一人でサバイバルをしているようです。
本を読んだり、人と話したりしていく中で、そのようないわゆる“生きづらさ”の根源には育った環境の問題があるのだろうと思うようになりました。そしてそれは両親、特に母から受けた影響によって、いまの私が形作られていると確信するにいたったのです。
思い起こしてみると私は幼いうちから、母はこちらの気持ちを試すことが多かったように思います。機嫌が悪くなると不穏な空気を出したり、話しかけても無視したりすることが多くありました。ベランダに締め出されて家の中に入れなくされた記憶もあります。
また、父と母の関係性も決して良好であったとは言えません。不倫が発覚する以前から不仲で、事務的な連絡以外会話がほとんどなく、二人で仲良くしているところを見た記憶は一度もありませんでした。喧嘩こそありませんでしたが、私と妹はその真反対に冷戦のような空気感を生き抜かなければいけませんでした。
そんな両親の姿を見たり、母親の影響を受けて育ったからか、中学生になってからは私もほとんど両親と会話をしないようになりました。自分を守るためだったのか、家の中では心をシェルターに入れて、そこにこもるように黙々と毎日を過ごしていました。家にもなるべくいないようにしていて、かといって学校でも落ち着く場所はなかなか見つからず、部活の自主練習をしたり、自習室で勉強をしたりして時間を潰していました。その時は感情が鈍麻していて何も感じていませんでしたが、当時の私は安心して存在することができる場所をどこにも持つことができなかったのです。
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私が自分自身を助けて楽にしてあげるためには、自分の育った家についてちゃんと向き合うしかないと思うようになりました。そして、両親が離婚したこのタイミングでルーツである実家について改めて問い直そうと決めたのです。その手段として父、母、妹にインタビューを行い、それを本にまとめることにしました。
親とは距離を取っていたのですごく嫌だったし緊張もしましたが、家族それぞれに会いに行き、2〜3時間程度インタビューをしました。それを書き起こしたものにエッセイを加え、『失われた「実家」を求めて』という本を2024年に自主制作しました。
この本の制作理由として、家族から話を聞くことで何か私自身が救われるような声を聞くことができるのではないかという意図もありました。しかし、結果から言うとその目論見はまったく叶えられませんでした。母や父と話していて、何か自分にとって救いになるような言葉は何も得られなかったのです。長年会っていなかった両親と急に話したとて、何も得られないのは当然かもしれません。
ただその中で、ヒントになるような考えには出会うことができたと思っています。私はその本の最後にこのように書きました。
ただ、話を聞いていく中で段々と気付いていったこともある。私以外にも、同じように「実家」に苦しめられた人はたくさんいるんだろう。「実家」によって殺された亡霊たちの姿が見えるような気がした。家が、血が、家父長制が、私は憎い。両親を越えて、もっと大きな何かが私の苦しみの根源にはあるような気がする。(飯村大樹『失われた「実家を求めて」、私家版、二〇二四年)
なぜ母が家事をし、父が働かなければいけなかったのか。なぜ母は父の決めた場所についてきて住まなければいけなかったのか。なぜ母は長い時間不倫を見て見ぬふりをしなければいけなかったのか。
父も母も「こうしなければいけない」という社会規範に縛られてがんじがらめにされていたように感じられたのです。また、これまでの歴史の中で「家」という単位によって抑圧されてきた者たちの存在も感じるようになりました。
私の家で起きていた歪みはどこから発生していたのだろう。
そう考えてみると、私の家に共通する問題と他の家庭にも共通する問題があるのかもしれないと思うようになりました。家というものは、どの家庭でも多かれ少なかれ似たような構造をしているものです。それに苦しめられてきた私たちが向き合うべき相手は、もっと大きくて高いところにいるのではないか。だからこそ、私は他の家にも目を凝らして、これまで見えていなかった部分について見ていきたいと思うようになりました。
そして実際に『失われた「実家」を求めて』の出版がきっかけとなって、他の家について話を聞く機会もありました。『失われた「実家」を求めて』を販売してくれていた東京のBREWBOOKSという書店の店主・尾崎大輔さんが読んでくださった上で、「読書会をやりませんか?」というお誘いをくださったのです。「この本を起点にみんな何か話せることがあるのではないか」ということでした。尾崎さんの持っている付箋がびっしりと貼られた本を見て、「ぜひお願いします」と私は答えました。
読書会には様々な背景を持った人が来てくれました。私のように親が離婚した人もいれば、子どもを持ちながら離婚をした親の立場の方もいました。親と絶縁している方もいれば、反対に仲は良好だという方もいました。そして、本を読んだうえで集まってくれたからか、普段話していても聞くことができないような、それぞれの家の話を聞くことができました。どんな意見であれ、自分が育った環境ではない家の話を聞くのはたいへん興味深く、友人と話しているよりもプライベートなことを、初めて会った人の口から聞けたのはとても貴重な体験だったと思っています。
読書会で感じたことは、それぞれの固有の家の話を聞くという経験は何にも代えがたいものだということです。私たちは別々の家に育ち、別々の経験をしながら今まで生きてきました。そして、その経験は普段隠され、見えなくされています。「よそはよそ、うちはうち」と言いますが、それは本当にそうで、一つ隣の家になることでまったくその姿は見えなくなってしまう。それは、とてもおそろしいことだと思います。隣の家の中でどんな不条理なことが行われていても、なかなか外には伝わってこないということですから。
一方で、このようによその家の語りを聞くことで、私はその人の経験を想像し、自分の経験と照らし合わせて判断することができます。そうして、自分が親と結んでいる関係性をもう一度考えてみる助けを得られると思うのです。
私は母からどんな言葉を言ってもらいたかったんだろう。そして、どんなことをしてほしかったのだろう。今の私にはそれがあまりよく分かっていません。本当に言いたかった言葉を言わないでいたからか、いつしか何を求めているのか私には分からなくなってしまいました。
自分が今どのように感じていて、何を本当に求めているのか。それをこれから色んな人の手を借りながら探していきたいと考えています。
第2章は7月下旬ころ公開予定。
