2025.10.31
おにぎりを撮っていると言うと、大抵の場合は「え? なんで?」と不思譲がられる。人物や風景、花なんかにカメラを向けるのとはどうやらわけが違うらしい。
以前、平和島の倉庫で肉体労働をしていたとき、そこの班長が昼飯用に持ってきていたおにぎりが大きくてとてもかっこよかった。班長とは業務のこと以外はほとんど話をしたことがなかったが、どうしても撮りたくなって声を掛けた。怪誇な顔をしながらも撮らせてはくれたが、太陽の光が入ってくる窓の下で撮らせてもらおうとしたら「頼むから俺の目の届く所で撮ってくれ」と言われた。
「そんなことならもっとちゃんとつくればよかった!」と言って、包んだラップの上から握り直して形を整えようとする女性もいた。僕が撮っているのをそばで見ながら「恥ずかしい!」を連呼して、まるで自分がヌードを撮られているみたいに顔を真っ赤にしていた。
工場でシステマチックにつくられた揃いに揃った形、すべて同じ大きさ同じ量で大量生産されるおにぎり。一切人の手に触れることなく梱包までされてしまい、他と少しでも違えばその場で廃棄されてしまう。そこに感情は存在せず、そんなおにぎりでは空腹を満たすことくらいしかできない。だから、僕は直接手で握られたおにぎりしか写真を撮らない。
食べる人の顔を思い浮かべながら、一生懸命に気持ちを込めておにぎりをつくる。素手で握られたおにぎりは、人によって大きさも違えば形も違う。びっくりするくらいに不細工なときもあるし、笑ってしまうくらいにしょっぱいときもある。でも、そんな個性いっぱいのおにぎりのほうが僕には美しく見える。そこには目には見えない愛情がたくさん詰まっていて、僕らをお腹いっぱいにし、胸いっぱいにもしてくれる。僕はそこに用があっておにぎりにカメラを向ける。

