屋号をさまよう ❷ 言葉と出会う

第2回屋号をさまよう ❷ 言葉と出会う

2023.07.03

夢を見た翌日の日記。

2020年10月2日(金)23:43
今朝、阿佐ヶ谷のドトールコーヒーで静かに泣いた。自転車で(杉並中央)図書館に向かう途中、一息入れていたところだった。

深夜に目が覚めてしまい──中途覚醒が続いていた──屋号についていろいろと考え出した。さっきの夢に出てきたアイディアが、今までのなかで一番いい気がしてきた。今回の言葉は自分に沈んで拾ってきた手触りが確かにある。その距離の近さに興奮して目が覚めたのかもしれない。パソコンを立ち上げて、忘れないうちにテキストで打ち込んで、プリントアウトしてみたりした。もっと近くなってきた。出てきた言葉は「」だった。これが妙にしっくりくる。これが決まりのような感触がある。手帳を開いて、一体いつごろからコレにかかりっきりになったのかを調べてみる。8月7日の夕方、携帯に着信があったので折り返すと保証協会だった(借入銀行の保証人)。融資内定の連絡だった。その日は安堵して、高円寺庚申通り商店街の古本屋で文庫本を何冊か買い──そういえば7月28日の保証協会面談は、わりとよい印象だった──どんな屋号にするかを考え始めたのだ。約2カ月。案出し数は214。プリントアウトを持ってドトールに来たのだ。

頼んだホットティーを受け取って席に着き、iPhoneにイヤホンをつなぐ。まずは音楽だ。

1曲目は、Hiroshi Fujiwara “Let My Love Shine”。1stアルバムの1曲目/1994。70’s New Soulへのオマージュ・サウンド。

おそらく一発録りだろう。前半と後半のテンポが明らかに違うので。曲間のギターソロがいいんだよなー(3:01-3:25)、と我に返るともう過ぎていた。大サビの大団円(5:03-6:12)のあと、抑制の効いたリズムに戻ってエンディングへと向かう(6:35-end)。大好きな箇所。

この曲は、Marlena Shaw “Feel Like Makin’ Love”/1974 へのリスペクトがあると思う。

よいなーと思い、そうだ、エンディングが好きな曲を聞こうと、Pat Martino “Just Friends”を選曲、再生。初リーダー作/1967。

トゥルーディー・ピッツの強力なオルガンソロ(2:19-3:55/まるでコードソロのようなバッキングギターで詰め寄る、マルティーノのプレイも胸熱)のあとテーマに戻り、いよいよエンディングへ。Ⅲ-Ⅵ-Ⅱ-Ⅴの循環コードでリフレインするマルティーノのギターフレーズに、ミッチ・ファインのドラムが呼応する(5:30-end/タンタターッタ)。そして名残惜しくもフェイドアウト。それがよい。終わってほしくないのでボリュームを上げる——20年以上同じことをやっている。

余韻を感じながら、Bill Evans “Danny Boy”/1962。ピアノソロへ。

村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終わり 編」 で「僕」が「手風琴」で弾いた曲。それで自分の唄を取り戻すんだよな。作中は(おそらく)ビング・クロスビーの「ダニー・ボーイ」なのだが、個人的にはこのピアノソロ・バージョンだ。

その場面を引用してみる。ちょっと長いけど。

 そのとき何かがかすかに僕の心を打った。ひとつの和音がまるで何かを求めているように、ふと僕の中に残った。僕は目を開けてそのコードをもう一度おさえてみた。そして右手でそのコードにあった音を探してみた。長い時間をかけて、僕はそのコードにあった最初の四音をみつけだすことができた。その四つの音はまるでやわらかな太陽の光のように、空からゆっくりと僕の心の中に舞い下りてきた。その四つの音は僕を求め、僕はその四つの音を求めていた。
 僕はそのひとつのコード・キイをおさえながら、何度も四つの音を順番に弾いてみた。四つの音は次のいくつかの音とべつのコードを求めていた。僕は先にべつのコードの方を探してみた。コードはすぐにみつかった。メロディーを探すの少し手間がかかったが、最初の四音が僕を次の五音に導いてくれた。そしてまたべつのコードと三音がやってきた。
 それは唄だった。完全な唄ではないが、唄の最初の一節だった。僕はその三つのコードと十二音を何度も繰りかえしてみた。それは僕がよく知っているはずの唄だった。
『ダニーボーイ』
 僕は目を閉じて、そのつづきを弾いた。題名を思い出すと、あとのメロディーとコードは自然に僕の指先から流れでてきた。僕はその曲を何度も何度も弾いてみた。メロディーが心にしみわたり、体の隅々から固くこわばった力が抜けていくのがはっきりと感じられた。久しぶりに唄を耳にすると、僕の体がどれほど心の底でそれを求めていたかということをひしひしと感じることができた。僕はあまりにも長いあいだ唄を失っていたので、それに対する飢えさえをも感じることができなくなってしまっていたのだ。音楽は長い冬が凍りつかせてしまった僕の筋肉と心をほぐし、僕の目にあたたかいなつかしい光を与えてくれた。

『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド(下)』村上春樹/新潮文庫/P286-287

なんてことを考えながら、ドトールでビル・エヴァンスの「ダニーボーイ」を聴いていると、ふと急に——本当に急だった——高ぶる感情を覚え、と同時に嗚咽が始まる。目頭が熱くなり、涙が滲む。鼻水が垂れ、肩が震える。呼吸が荒くなり、声を押し殺して啜り泣く。思わず「がんばれ、がんばれ」とかすれた声が漏れる。自分を鼓舞するにはあまりにも頼りない。涙と鼻水でマスクが濡れる。まるで、身体の中に押し込まれていた何かが顔を出し——誰かに? 何かに?——ズルズルと引っ張り出されるような感覚。朝のドトール(9時ころ?)でグショグショになっているおじさん。それはそれは奇妙なことだったろう。

落ち着つくのを待ってからドトールを出る。

この涙はいったいなんだったのだろう、なんで「がんばれ」ってつぶやいたのだろう、と考える。

怖かったし、恐ろしかった。

金まで借りて出版社をやるなんて本当に正気なのか? 自分でやると言い出したくせに、もっとも大事な、肝心な、屋号がそもそも決まらないじゃないか。この2カ月間、いろいろな言葉を探しながら、探しながら……どこにも辿りつかない、見つからない。そもそも、そんな言葉が本当にあるのか。順番が逆なんじゃないか。先に屋号があって自分のやることが言語化されて、初めて金を借りるんじゃないのか。先に金を借りてしまったじゃないか。自分の言葉がないやつが、出版社なんて笑わせる。そんなことでやっていけると思っているのか?

こんな言葉が、自己批判が、自己否定が……常に耳元にあった。内面にビターっと張りついていた。いつも言葉を探してきては、ほかで使われている、何かに似ている、の繰り返しだった。自分と離れていてどうにもしっくりこない。何のためにやるのだ? それに応えられない。そんな状態だったのだ。すでに二人の著者には原稿を進めてもらっている。どうすんだよ。

そこで出てきたのが「命」だったのだ。「ああ、命か。わたし自身だよな、そういえば。本だって命だよな。その本(命)を作家に書いて(込めて)もらうんだよな。それを読者が受け取るんだよな。命か。本は命のバトンだよな」と、つらつら思って、つながってきたのだ。

わたしは自分が思っている以上に重症だ。身体の声、魂の声を聴きとることが、こんなにも難しい。これは異常なことではないのか。それを44年間続けてきたのだ。それでも魂の深いところでのザラザラ感は残る。だから苦しい。ザラザラしたこの感じを持ったまま、またサイズの合わない服を探し、そして着て、あわなくて脱いで、を繰り返してきた。屋号となる近い言葉が出てこない。魂の言葉が出てこない。こんな調子だから、また同じことをやろうとしているのではないか。そんなささやきに引き込まれる。でも「命」が出てきた。ああ、命なんだ。命と等価なんだ。それぐらいの気持ちでいるんだ。「命」を屋号に入れるかどうかはさておき、自分の魂の声を聞くことができて、つかめたこと。このことに涙したのだ。悪いことじゃない。ぜんぜん悪いことじゃない。そういうことだ。そういうことなのだ。そうとうにやられているのだ。その気づきへの涙だったのだ。きっと近いところまで来ている。

自分を信じることの難しさよ。自分を信じることができない。プログラムを入れ替える必要性。再インストールを。魂の声を聞くスピードは人それぞれだ。しかし世界はそれとは関係なく動き、自身の都合に合わせることを要求する。やっかいなのは、これが正しいという刷り込みがなされていること。みんな知らないうちに、このプログラムにされているんだよ。そうじゃないんだよ。

本は命そのもの。その命をわたしていく。命を重ねていく。 わたしにとって出版社をやることは、自分の命そのもの。 「命命舎」(めいめいしゃ)。


追記。
そういえばドトールを出たあと、不思議な体験をしたのだった(なぜだか日記には書かなかった)。たぶん、本当にあったんだと思う(うまく書けないと思うけど書いてみる)。

中杉通りの横断歩道でぼんやり信号を待っていると、道路の向こうから甲高い音が聞こえる。街路樹の遥か上からのようだ。強い逆光でよく見えない。

ヨイッ! ヨイッ!

え? 音程は、音の出る信号機「ピヨピヨ」に似ている(けど違う。この信号機から音は出ない)。発音は、「ヨ」にアクセント。リズムは、「ヨ」と「イッ」が八分音符、「!」が四分休符。1小節にこれが2回(タタッウン、タタッウン。わかりにくいですね。休符が表示できないので)。赤くなった目でよく見ると、黒い影が見える。カラスか?

ヨイッ! ヨイッ!

何度も見る。どう見てもカラスだ。カラスが鳴いている。そのうちに、

良いっ! 良いっ!

に変わった(本当なんですよ!)。良い??

時間が止まっていたような気がするし、白昼夢を見たのかもしれない。だけど、涙と鼻水を出し切り空っぽになった──剥き出しの/無防備の/そのものの──わたしには、現実に起こったこととして感じられた(受け取った)。

いいでしょう、いいでしょう。 わたしの「良い烏」/「ヨイガラス」よ。何を暗示してるんだい? 「ヨイガラス」よ。

以降ここを子どもと通るたび、「パパはここで『ヨイガラス』を見たんだよ。『ヨイッ! ヨイッ!』って鳴くんだよ」と言ってみる。子どもは「ヨイッ!」とうれしそうに言う。

屋号をさまよう ❸ 言葉を託す」へ続く

樋口聡ひぐち・さとし

1976年生まれ。茨城県水戸市出身。ひとり出版社・人々舎(ひとびとしゃ)代表。27歳のときに、バンド活動及びフリーター生活から出版業界の片隅へ。以降、編集の真似事と退廃の20年を過ごしたのち、2020年に独立。「本にむすうのうつくしさを。」をスローガンに、東京都中野区にて人々舎を始める。

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